ベトナム独立に伴いフランスとの間で戦われた、第一次インドシナ戦争(1946年〜1954年) の延長上にある戦争。 フランス軍の敗北後にベトナムの南北統一を巡って起こった戦争だが、共産主義の北ベトナムと資本主義の南ベトナムの戦いという「代理戦争」という本質を合わせ持った複雑な事情がある。
元々アメリカは南ベトナムへの軍事支援を行うために軍事介入したのだが、南ベトナムの戦況悪化もあり、ジョンソン大統領はアメリカ正規軍を派遣。アメリカ軍が全面的に出てきたことで、ベトナム戦争は「アメリカとベトナムの戦争」となる。
こうしてアメリカは圧倒的な戦力を背景に、卑劣な無差別爆撃や枯葉剤の使用、ナパーム弾による農村部への無差別攻撃や、アメリカ軍兵士による村民への暴行を引き起こし、拷問、虐殺を行った。ちなみに、これら戦争犯罪にはアメリカ軍兵士だけでなく、韓国軍兵士も虐殺に加わっている。
こうした非人道的な行為は西側諸国における大規模な反戦活動を引き起こし、更に「戦争当事国」のアメリカでも反戦運動が勃発。 また、南ベトナムにおいては、南ベトナム解放民族戦線(南ベトナム政府に対する反政府組織)が首都サイゴンを中心にテロ活動を激化させ、南ベトナム政府による支配力はきわめて不安定となる。
また、50万人を超えるアメリカ兵をベトナムに投入するも、ゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線の戦力には及ばず、その後、ジョンソン大統領が退陣、「名誉ある撤退」を訴えたニクソンが大統領に就任。公約どおり、大幅な兵力を削減していく。 これと同時にニクソン大統領は北ベトナム政府との秘密和平交渉を指示。
しかし、ニクソン大統領はアメリカ側の講和条件を有利にする為、1972年5月8日に北ベトナム爆撃を再開。圧倒的な航空戦力を駆使し、軍民問わない無差別攻撃を行い、ハノイは焼け野原と化す。
アメリカ軍による戦略爆撃の結果、北ベトナム軍の海軍と空軍がほぼ全滅。 北ベトナム国民は大量の死傷者を出し、ただでさえ貧弱な北ベトナムのインフラにも大打撃を与え、人々は苦しめられた。
こうして、アメリカ政府の思惑通りに北ベトナム軍は戦闘不能な状態に持ち込まれ、北ベトナム政府は和平協定に合意せざるを得ない立場に追いこまれる。 そして、1973年1月23日、フランスのパリにて「パリ協定」が交わされた。
これにより、アメリカ軍は全面撤退を開始し、1973年1月29日、ニクソン大統領は「ベトナム戦争の終戦」を宣言した。
ただし、これは「アメリカのベトナム戦争の終戦」であり、南北ベトナム統一という、本当のベトナム戦争の終戦ではないのである。
戦争証跡博物館の屋外には、アメリカ軍の軍用機や戦車などが展示されており、屋内には写真を中心に、多くの資料が展示されている。 ちなみに、戦争証跡博物館は1993年まで 『アメリカの戦争犯罪博物館 (AMERICAN WAR CRIMES MUSEUM) 』という名称で呼ばれており、ベトナム人のアメリカに対する思いを象徴している。